・・・戦争と美術について・・・ 

岡部 昭

私は一人の人間として、戦争を心から憎む。人間と人間が殺しあう体験をもとに、そこから美しい形や色を引き出して、人類の未来への夢や希望を形象化する美術作品を作ることは、全く不可能なことは誰でも理解できることだ。既に他界された画家の友人のことだが、一兵卒として中国戦線に送られ、上官の命令により強制されて中国人捕虜を刺殺した後悔に一生苦しみ、最後は画家まで放棄し、苦しみ抜いた彼の一生を思えば、人殺しの体験はその人の心そのものに破壊的な影響を与え、美術という行為にも極めて多くの障害を齎すほど恐ろしいものなのだ。たとえ実体験が無くても、美術家特有の想像力で加害者の立場から戦争をテーマに作品を制作する時、その心は一体なにに共感するのか。作者の心を豊かに膨らませる実感、夢、希望、の中味は一体如何なるものなのか。創作は夢を膨らませてのみ可能な行為であるなら、作者の心は誠に寒々とした空虚なものになるだけで、説明のみのイラストというような絵にはなるだろうが、美術としての価値を絵画に盛り込むことは不可能である。

美術家としての私は【人間自身の命の素晴らしさを形象化することが美術である】という信念をもち、これを基本的な柱として、拡張解釈も加えて、私は85歳になろうとしている今、残された人生の可能な限りを制作に没入させている。その拡張解釈とは、人間と共生関係の動物植物の命にも共感し、更に限られた地球が持つ偶然と言えるほどの環境まで含めてであって、これは体験を重ねながら確信を深めている。古今東西の美術家達は皆命の美しさを形象化した無数の作品を残してきたし、日本の花鳥風月という美術の伝統も人間が作り上げた素晴らしい成果である。

この信念を意識したのは四十台半ば、ブナの原生林に巡り合った頃で、そこに到る一番大きな力は小学4年生9歳のとき中国侵略が始まり17才夏敗戦までの9年間の経験であって、それは心に深く刻み込まれ、何十年も経ってやっと『命の中に美の源がある』ということに気づいたのである。その経験とは、国の嘘の歴史を守る為に殺し合いはしたくない、死にたくないという考えが年を追う毎に次第に体中に広がるが、一方反比例して、学校の軍事教官、新聞、ラジオ等にお前は弱虫弱虫と非難されているような気持ちも拡がり、僕はなんという臆病者なのかという自己否定の思いも募り、この葛藤で死にたい、死にたいとまで思いつめ、すぐ死ねる為にどんな毒草がよいかと本まで買って調べた。

しかしその葛藤の中で僕の心に暖かい光をさしてくれたのが美しい音楽であった。幸なことに家にはバッハのバイオリン無伴奏ソナタをはじめ多くの曲があって、少年のころからクラシック音楽に親しんできた。近所に大政翼賛会を起草した麻生久の一人息子良方氏が三歳年長で、小学校のころから長男の自分にとって大切な兄のような気がして、親しんできたが、彼もクラシック愛好家であった(やがて決別するが)。やがて彼は早大生となり、学徒動員が始まり、早大のクラシックフアン達の秘蔵レコードを麻生さんを介して預かることになる。その中に今まで聞いたことも無いレコードがあった。それはドビュッシーの『チルドレンズコーナー』と『24の前奏曲の部分・亜麻色の乙女』、フオーレの歌曲集『月の光』であった。今まで聞いたベートーヴェンやワグナーのドイツ音楽は、中学校でお目にかかる大嫌いな軍人や青年将校のイメージと重なるが、あのフランス音楽は堅苦しい様式に囚われず、私の心に深く深く浸み込んで暖かい光で照らし、今まで人間総てに絶望してきたのに、聞いたその時、人間はなんと素晴らしいのだろうかと思い周りのフアンに薦めたが、麻生さんはじめ、すべてのフアンから、これでも音楽なのと否定されたが、僕にとっては、聴けば聴くほど生きなければという勇気をもらって戦時中と戦後を一生懸命生き抜くことができたのである。しかしその後私自身ドビュッシーの音楽の美しさに逃避していたのではないかと何度か自問したが、『芸術の美とは人間の心の美しさそのものを表現したもの』と考えている。それにしても、あのレコードをもっていた方は学徒動員で大切な大切な命を絶たれてしまったのだろうか。いま自分自身美術家として作品を作る時、数十億年の宇宙の歴史の中で得られた、たった一度の自分の命の美しさ嬉しさを観客と共鳴しあえるように心を砕く。そしてドビュッシーのように見る人の心に光を差し込めるような、美しい作品を作りたいという思いが何時も心の何処かにある。

戦争の場面を想像して描かれた絵は夢や愛を膨らませて描くことが出来ないため美術作品は出来ないと私は考えているが、サイパン島で市民の男女が崖の上から海に飛び降りて自殺する場面の作品についてだが、国家の戦争政策に引きずり回されて家族ともども自殺を強要された民間人の、逃げ道の無い悲惨さを画家はこの人達を心を込めて画きあげていると思うが、ここだけ見れば単純に反戦的絵画と言えるが、私が体験した敗戦の半年前のあの時の状況を思い出しながら、あの絵を見た場合、話は逆になる。たとえ戦争はいやだ、死にたくないと思っても、あの絵を見れば弱虫の自分を恥じてしまう。食料の絶対不足で半ば栄養失調の中、戦争はうんざりと思っても、戦争が終わるためには勝つ以外にはないし、負けることで戦争を終結させることが出来ると自分一人が思っても言えないから思わない、弱虫と思いたくないから負けることを思わないという不思議さは言論が比較的自由な今の平和な時代に育った人には判らないであろう。国はこの絵を利用すれば、国民の大半を戦時体制に組み込み易くなる。勝つ見込みの無い絶望的な状況で、本土決戦が敗戦半年前には準備が進むなか、国民の心を「仇を討つ」とか「あとに続く」という絶望的な状況に追い込み、逃げ道を絶たれた民間人一人一人を「猫を噛む窮鼠」に組み込む為に利用できる格好の絵ではなかったかと、いま改めて思う。言論を徹底的に管理し他国支配の為の戦争遂行に明け暮れた国家の恐ろしさを今改めて思い返す。

国はこの敗戦数ヶ月前飛行機も戦車も無いのにアメリカの大軍を九十九里海岸で迎え撃ち本土で雌雄を分ける大決戦を計画する時、私は今の東京農工大の二年生、近所のJR国分寺駅には普段見ることの無い大量のセメントや土木資材が積まれ、学校の武器庫は空っぽだが、隣の中学校には陸軍部隊が駐屯していて、校庭には木で戦車の模型が作られていて、戦車のキャタピラの下に爆雷を持って飛び込む訓練を、将校の指揮で受けていたのを思い出す。 終